北勝海は膝のケガをきっかけに、休場が多くなっていった。当時、4人の横綱が番付に名を連ねていたが、5月場所の千代の富士の引退を皮切りに、次の7月場所では大乃国、翌1992年(平成4年)1月場所では旭富士も相次いで土俵を去り、同年3月にはついに北勝海1人となってしまった。3月場所に進退を賭けて出場したものの、北勝海らしい相撲は全く見られず、初日から水戸泉、久島海に2連敗してそのまま途中休場した。北勝海は横綱の責任感からぎりぎりまで復活を目指したが、度重なるケガは回復しないため、同年5月場所直前に番付に名を残しながら、28歳10か月の若さで引退を表明した。わずか1年の間に4人の横綱が全ていなくなってしまったのである。なお、北勝海の横綱在位数は29場所(番付上は30場所)だった。
その後同1992年7月場所から4場所の間横綱空位が続いたが、翌1993年(平成5年)1月場所後に曙がついに横綱昇進を果たした。その直後北勝海の引退相撲では、横綱最後の土俵入りに、新横綱になったばかりの曙が太刀持ちを務めた(露払いは当時大関の小錦)。
また、引退相撲では当時異例とも言える、北勝海最後の取組が行われ、その対戦相手は同じ「花のサンパチ組」の寺尾だった。北勝海が最後の場所となった1992年3月場所、3日目の対戦が寺尾と決まっていたが、北勝海が不戦敗となってその後引退、彼自身寺尾と対戦出来なかった事が心残りだったという。そして彼は、引退相撲で寺尾と最後の対戦をしたいと申し出ると、寺尾は快く承諾。そしてその取組では、寺尾が北勝海を寄り切って勝利したが、勝負が決まった瞬間寺尾は北勝海に「お疲れ様」と労いの言葉を贈った。なお寺尾はその後も、「花のサンパチ組」だった琴ヶ梅と小錦の引退相撲でも、最後の取組相手として二人共に指名され、土俵に上がり勝負した。
素質はそれほどなかったが、非常に稽古熱心であり特に千代の富士との稽古は凄まじいものだった。その稽古熱心さから雑用を免除されており、チャンコ番をさせた兄弟子が千代の富士に叱られたという逸話も聞かれる。本人も千代の富士がいなければ綱などとても取れなかったと言う。特に北勝海は幕内昇進後、千代の富士が休場した場所や3月場所には滅法強く、その時期での幕内優勝が多かった。頭から当たって突き押しで相撲を取るため、引退直前には額の生え際の毛は擦り切れかけていた。多くの場所でエメラルドグリーンの廻しを使用していた。
また北勝海は、もともとは十両に昇進することを最大の目標としていた、とも語っている。富士昇(北天佑の実弟)事件を特集した相撲雑誌などに、将来の目標を「横綱」とした富士昇と対比する形で発言が引用掲載されている。当時、大関栃光に外見も取り口も似ているといわれ、師匠の九重も栃光の本を渡し読むように助言したという。現役時代の後援会長は鈴木宗男だった。独立後の八角部屋の後援会長も鈴木のスキャンダルが発覚するまでは勤めていた。媒酌人は浅田満が勤めた。化粧廻しも浅田が経営していたハンナンから贈られたことがある。
なお、1991年7月場所千秋楽の旭富士対北勝海戦を最後に、日本人横綱同士の本場所での対戦は行われていない(2009年(平成21年)3月場所時点。帰化した曙・武蔵丸は除く)。
親方として [編集]
年寄北勝海のち八角を襲名。八角部屋を立ち上げ北勝力、海鵬ら関取9人を出している。また弟子の数が多く、ことに関取予備軍である幕下力士が多く所属しており、スカウト活動と育成の手腕に優れている。1998年(平成10年)から1期(2年)だけ監事を務めた。
NHKの大相撲中継では、通常横綱経験者は行わない午後1時から2時30分までの幕下以下の取組の解説を1場所に1度担当する。また、サンデースポーツでは「八角親方の金言苦言」というコーナーを持ち、実演を交えた解説を行っている。
エピソード [編集]
初優勝した1986年3月場所、北勝海(当時は保志)は関脇以下の力士としては初めて「1場所5大関撃破」を達成している。翌年の3月場所は益荒雄が小結で同じ記録を賭けて当時の大関の北勝海と対戦。北勝海は益荒雄を下し同じ記録達成は阻止した。この場所北勝海は2度目の優勝を果たした。
初の大関獲りがかかった1986年5月場所は11勝4敗で昇進は見送りになったが、11勝で大関になれると思っていた保志は相当落ち込み、場所後の稽古にも身が入らなかったという。しかしそれを見逃さないのが横綱千代の富士。保志は千代の富士との稽古で徐々に自信を取り戻し、翌場所大関獲りを実現する。
綱獲り前3場所の成績は36勝9敗。直前の成績では大乃国との差は星2つ。現在の規定ではとても横綱昇進出来る成績ではないため「北勝海だから昇進出来た」と言う声も多い。それだけ品格や稽古熱心さが評価されていたということである。
千代の富士の優勝、または優勝争いで何度が援護射撃をしている。新横綱の1987年7月場所は優勝と綱獲りがかかっていた大乃国を千秋楽に下し、千代の富士に21回目の優勝をプレゼントした(大乃国は場所後の横綱昇進も失う)他、1987年11月場所14日目には、千代の富士と共に全勝だった横綱双羽黒を下している(翌千秋楽、千代の富士は双羽黒を下し22回目の優勝を決めた)。1988年1月場所14日目には全勝の大関旭富士を下し援護射撃したが、千代の富士は同日の結びの一番で大関小錦に、千秋楽に旭富士に敗れ優勝を逃した。1989年11月場所12日目にも全勝の大関小錦を下しまたも援護射撃。しかし千代の富士は翌13日目小錦に敗れ優勝を逃している。
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1988年3月場所で大乃国に逆転で優勝をさらわれた際は「あの悔しさは一生忘れない」と語り、屈辱を胸に秘め臨んだ翌場所は途中休場しさらに3場所連続休場。北勝海のプライドはズタズタに切り裂かれた。復活優勝した1989年1月場所では14日目に大乃国を生涯最高の相撲で一直線で押し出した。さらにその年の9月場所では7勝7敗の大乃国と対戦しあっさりと大乃国を下す。これ以上にない屈辱を受けたという北勝海が大乃国に「15日制が定着してからは初めての横綱皆勤負け越し」というそれ以上の屈辱を与えてしまったのは何とも皮肉である。
復活優勝の1989年1月場所、優勝がかかった千秋楽に旭富士に完敗。「あの時(1988年3月場所)の事が頭を過ぎった」というが、「土俵に上がれるだけで幸せなんだから」と気持ちを切り替えて優勝決定戦で旭富士を下す。優勝インダビューで目に北勝海は涙を浮かべながら、「治療先で会う人全てがとても良くしてくれた。だから自分も治療やリハビリを乗り切り復活する事ができた。今までに会った人に感謝したい」と喜びを語る前に治療時にお世話になった人たちへのお礼の言葉を述べた。 また、この場所前リハビリから帰ってきた北勝海を見た師匠の九重親方は「以前より胸板が厚くなった。本気でリハビリに取り組んでいたんだ」と喜んだという。北勝海の人柄や真面目さを感じさせるエピソードである。
1989年7月場所での千代の富士と史上初の同部屋横綱同士の優勝決定戦。本人曰く「廻しを切ろうとしても切れなかった。稽古場でも強かったが本番では全く違う(ほど強かった。)」と脱帽。
1990年3月場所での優勝決定巴戦。「あと一戦あったら腰が持たなかったかもしれない」。それだけ壮絶な決定だったことがうかがえる。
1991年1月場所前での稽古総見では曙が初参加。旭富士や霧島などの上位陣に稽古を頼むも相手にされない。(稽古でも手を抜かない曙を上位陣が嫌ったとされる。)しかし北勝海は曙と積極的に稽古し、羽目板にぶつけられることもしばしば。その1月場所では曙の突っ張りをかわし、腰についた北勝海が切り返しで圧勝。「稽古場ではあんなの無かったのに。」と落胆する曙。北勝海は「曙と稽古しておいて良かった。(稽古を)してなければ強さもわからなかったし、やり辛かった。だてに羽目板にぶつけられていたわけじゃないよ。」とご満悦。
1991年7月場所は休場明けで且つ稽古不足で大不振。12日目にようやく勝ち越しを決める。引退したばかりの千代の富士に「勝ち越しおめでとう」と冷やかされる。さらに千秋楽は8勝6敗同士での旭富士との対戦。「泡の抜けたビール」「史上最低の千秋楽相星決戦」と叩かれる始末。しかし北勝海は旭富士を下し、何とか9勝目を挙げた。
引退する1992年5月場所前、ろくに稽古が出来ず、自身が相撲を取れる状態ではないにも拘らず北勝海は出場を表明。師匠になったばかりの千代の富士は渋々認めたものの、旧師匠の北の富士は納得しない。自ら引き際の潔さを貫いた北の富士は北勝海を説得、千代の富士を含めた3者の話し合いで北勝海の引退が決定。引退会見では「自分は稽古で横綱まで上がったから、稽古が出来なくなったら終わりだと思った。」涙ながらに語った。
北の富士は北勝海のことを「素質ではその辺の力士と変わらないが、稽古熱心さでは100人に1人の素材」と評した。彼の稽古熱心さが解るコメントである。
素質不足を気力で補う相撲の性質のためか、気が緩む面のある優勝決定後の取組は4戦4敗であった。
成績 [編集]
通算成績: 591勝286敗109休 勝率.674
幕内成績: 465勝206敗109休 勝率.693
横綱成績: 250勝 76敗109休 勝率.767
幕内在位: 53場所(横綱在位30場所、ほか大関5場所、関脇9場所、小結4場所)
幕内最高優勝: 8回
優勝同点:2回
年間最多勝:1987年(74勝16敗)、1989年(72勝18敗)
三賞: 殊勲賞3回、敢闘賞3回、技能賞5回
金星: 1個(北の湖)
各段優勝:十両1回(1983年7月場所)、幕下1回(1983年1月場所)、序二段1回(1979年7月場所)